NO.26 『AEDを設置しました』
一昨年、子どもの頃に習っていて大学入学と同時に止めてしまっていたバイオリンを20数年ぶりに再開した。ちょうどその頃、友人たちと食事をする機会があった。 話題はステレオ装置について。 「でも、音楽は生が一番」と私が言ったところ、友人に「生って何?」と聞き返された。「生の音楽と軽く言うけれど、客席のどこに座るかによっても音は違ってくる。まして、オーケストラの中のどのパートで聴くかでも違うし、録音マイクの位置でも音は簡単に変わる。どれを生の音と言うのだ?」と聞かれた私は、何も答えられなかった。 確かにそうだ。今まで、生の音楽と私の言っていたものは、「生演奏の雰囲気」と言うべきだったかもしれない。「生で世紀の名演奏に巡り会える幸せなチャンスなんていうのはまずないのだから、録音された再生音楽をもっと大切にするべきだ」と諭された。 それを受けて、私は、屋根裏部屋から父が長く放置していた英国製の古いスピーカーを運び出した。 どうやら名機らしいTANNOY VLZというそのスピーカーを鳴らすのに、これなら相性がいいだろうと教えてもらった古い型の英国QUAD社製のアンプを中古オーディオ屋さんで格安で購入、オーバーホールを電気工作オタクの友人にお願いし、CDプレイヤーは格安で知人から中古を譲ってもらい、周りの人に全て助けられて私の部屋は立派なリスニングルームになった。 鳴らしてみたときには驚いた。確かに「生の音」とは違う。 でも、そこには存在感のある素晴らしい音があった。もちろん、録音がいい名演であることも大きいだろう。だけれども、現行のハイファイオーディオとはまた違った力強く芯のある生きた音がするこのシステム、ここから、私ははっきりと「お古はなんだか魅力的」という意識を持ち始めた。 そうしているうちに、今度は友人の一人が音楽監督と指揮者をつとめるアマチュアオーケストラでバイオリンの欠員があるという。やってみないか、という軽い一言で、何となく心は動いた。 子ども時代、大阪市の主催するユースオーケストラに所属していたのでオーケストラで弾くことの魅力は知らないわけではないけれど、長期間のブランクで自信はなく、ついていけるかどうか不安ではあった。 友人はそんなことはわかっていて、とにかく下手でも音の厚みになることくらいはできる、大丈夫、と軽く笑い飛ばされた。 数日後には、私はそのオーケストラに参加することにし、楽器を買い換えた。新作楽器を選ぶという選択肢は頭になく、もちろん中古の楽器。100年ほど前のもので、楽器としては古いほうではない。選ぶのには時間がかかった。最終的には試しに1ヶ月、2本借りてきて弾きくらべて、そのうちの1本を選んだ。 今までの楽器とは別物の深い音で演奏を楽しめるようになった。 そのうち腕時計も中古に興味が出てきた。 格好良く言えばアンティーク時計。 ただ、私はシンプルな文字盤の素っ気ない時計が好きなので、アンティークというより中古と呼ぶほうがしっくりくる。 いろいろと変遷してきて、今、私の腕に着けられているのは1960年製IWCのCal.44というムーヴメントの小さな自動巻のオーソドックスな時計。 つまり、私の生まれる前から動いている時計だ。 耳に当ててみると、コチコチという愛らしい音がする。 時計の次はカメラだった。 これもカメラ好きの友人が、使ってごらんと渡してくれた1920年代後半に作られたLeicaが始まりで、その後、数台の魅力的なクラシックカメラを借りているうちに、自分でも中古カメラ屋さんを巡るようになった。 ついにRollei35Tという小さなカメラを手に入れたのが2ヶ月前、同じ頃、父の道具箱をかき混ぜているうちに、30年ほど前のオリンパスPENというハーフサイズカメラを見つけた。 坂道から転げ落ちるように病状は進み、Rolleicord Wという二眼レフのカメラまで使うようになった。そして、そのカメラたちを使って写真を撮ることの魅力にすっかり取り憑かれてしまっている。プリントは増えるばかり、部屋を占領されそうな勢いである。 全ては友人に恵まれたところからのスタートではあるのだけれど、いつの間にか私の身の回りは「お古の物」ばかりになってしまった。 昔は良い時代だったから、なんて軽く言うつもりはないけれど、ステレオにしても、楽器にしても、時計にしても、カメラにしても、現代の便利なものにはない魅力に溢れているように思う。使ったときの操作感や、手触りなどの感覚的なものにしても、現行のものにはない満足感があって不思議なものだ。 休日、晴れていれば古いカメラを持って撮影にでかけ、手首には古い自動巻腕時計、雨が降れば自室で古いステレオから流れる音楽を聴き、古いバイオリンを構えてオーケストラで演奏する曲の練習をする。 そんな時間が、とても楽しい。